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SとM

SとM (幻冬舎新書)

SとM (幻冬舎新書)

私もSMというものをステロタイプな意味で誤解しておりました。SMとはSとMの間のほぼ絶対的な信頼関係が織りなすエロスのあり方であり、Sの自己中心的な支配欲や嗜虐趣味をMが一方的に受け入れるという一方通行の加虐ではなく、相互の了解(対幻想)のもとになされる愛情表現の一形態なのです。SがMの被加虐的欲求を全て満たさないとすれば、それはもうSMではなく支配欲むき出しの暴力であり、この点で真のSMカップルは一般的な恋愛以上に高いハードルをクリアした究極の愛の形であると言えます。


さて、SMといえばサド侯爵と小説家マゾッホですが、西欧におけるSMの起源はキリスト教に見ることができます。著者曰く、西欧のSMは「苦痛=自己処罰=神との出会い」、つまり罪深き自らに肉体的苦痛を与えて罰することで神に近づくという思想です。ちなみにSMのマストアイテムであるバラ鞭はキリスト教の苦行用に考案された代物だそうです。それに対して日本のSMの起源は著者曰く「源氏物語」だそうです。つまり、源氏物語に登場する女性は光源氏に強姦され、調教されたりするわけですが、女性は必ずしも嫌がっていない、むしろ光源氏を魅力的な男性として受け入れているのです。これが女性によって書かれたことも重要です。理想的なSを求めているMの姿が見えて来ませんか、そうですか。


Mが理想的なSを求めることは洋の東西を問わないのですが、Mの求めるSが懲罰的である西欧と違い、日本の場合は束縛的であると著者は言います。この本の帯は「なぜ日本は縄でヨーロッパは鞭なのか」ですが、鞭の方は明快な論旨なのですが、縄については今ひとつ決定打に欠けています。しかし、日本では封建社会が長く続いたことや、律儀さ、規律正しさ、制服好きなどは、自由を拘束される心地よさのような日本的なSM文化を孕んでいるのでしょうか。


そういえば、社会人になったら自分の時間が持てなくなって嫌、とかいう人が結局は自分探しに疲れてうつになったりすると同様に、会社組織の束縛から自由になった退職者が何をしていいか分からなくてうつやら呆けやらになるのは似たようなもの、自分を気持ちよく縛ってくれる絶対的他者=Sの不在がそうさせるのかもしれません。日本人は何らかの束縛がないと生の快楽を味わえない拘束型のマゾヒスト、というのはあながち分からないでもありません。ちなみに私は鞭打ちも緊縛もNGなドノーマルなので、SMの恍惚に憧れつつも、快不快に疎い人生を送っています。何か話が逸れてきたのでこの辺で。